

5月24日、中野市アップルシティーにおいて第12回通常総代会を総代数179名のうち159名(書面含む)と関係機関から来賓の出席をいただき開催しました。
小田切組合長及び来賓のあいさつに続き、議長には、山ノ内町の芦原喜一総代が選任され議事に入りました。
提出議案について慎重審議の結果、全9議案が原案どおり可決承認されました。
提出議案
第1号議案 平成21年度事業報告、財産目録、貸借対照表、損益計算書及び剰余
金処分案並びに不足金処理案について
第2号議案 共済規程の一部変更について
第3号議案 平成22年度事業計画及び収支予算案について
第4号議案 平成22年度事務費並びに損害防止費の賦課及び徴収方法について
第5号議案 平成22年度役員、損害評価会委員、損害評価員並びにNOSAI部長の
報酬について
第6号議案 平成22年度余裕金預入先金融機関について
第7号議案 平成22年度無事戻金の支払いについて
第8号議案 家畜診療所運営委員の委嘱について
第9号議案 損害評価会委員の補欠選任について
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小田切組合長 あいさつ
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鷲澤副組合長 あいさつ
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芦原喜一議長
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審議風景
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採決風景
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現在、中野市の西江部には、9軒の農家でつくる洋菜組合があります。この組合は、昭和13年(1938)ごろ、西江部の農家の人たちを中心に創設されたものです。最盛期の昭和20年代から30年代半ば(1945~60)には、西江部の農家のほぼ全戸と近村の農家の数軒が加入し、「平野村清浄洋菜組合」と言っていました。当時、西江部は、セロリ栽培の特産地として位置づけられ、中央市場からも高く評価された地域でした。
この地域のセロリ栽培の礎をつくったのは、長島要之助と弟の氷見岩二郎兄弟。今回は、この二人の人物とセロリ栽培について紹介します。
要之助は、明治20年(1887)、弟の岩二郎は明治30年(1897)西江部に生まれました。岩二郎は、氷見姓になって分家に出ました。
要之助は篤農家で、大正末に西江部にできた「農事改良組合」のなかで農事改良を進めるのでした。その業績が認められ、同組合は大正11年(1922)平和記念東京博覧会会長より名誉ある表彰を受けました。表彰内容は、①水稲の健全育成 ②米の公的検査 ③青年団による稲の品種や肥料の改良を試みるための試験田事業などでした。長野県知事が水田の視察に来るなど、要之助は稲の先生として名を挙げ、米作りの指導をして歩くようになったといいます。
ところが、昭和4年(1929)に大恐慌が起き、西江部の農家もその渦に巻き込まれていきました。最も強く影響を受けたのは養蚕農家で、昭和4年夏秋蚕の一貫当たり平均9円7銭であったものが5年には2円50銭に暴落したのです。当時西江部にあった60数戸の農家の大部分は養蚕による現金収入で家計を支えていたので、経済恐慌の荒波に押し流されようとしていました。そんななか、要之助らは、みずからの力で経済更正計画を立て実行しようと考え、「江部農事真興会」を立ち上げたのです。会員は17名で会長に要之助が就任しました。
真興会が計画・推進したのは、農業経営の中に家畜を位置づける有蓄農家で、養豚など中小家畜の飼育とこれによる自給肥料を増産するというものでした。真興会が力を入れたもう一つは、セロリ(洋菜)栽培とその研究でした。
セロリの生育適温は15度~20度で、肥料をたくさん必要とする野菜です。また、土壌水分の多いところでないと十分な発育をしません。かといって、水もちのよい粘土土壌がよいというわけでもありません。西江部地域は、豊富な湧き水の流路に位置し、その水を引用することができました。しかも、地下水が高いことやある程度の水はけの良い土壌という条件にも合う土地柄でした。
要之助・岩二郎ら真興会の4人が南安曇郡の穂高町へ出かけ、勝野某という人からセロリ栽培の指導を受けました。そして、穂高町の苗を持ち帰ったり、アメリカから種を直接輸入したりして試作をしました。
木箱を作って種を蒔き、温室にして庭先におきました。芽がでたあとどうしたらいいかわからないことがあると、そのつど、安曇郡のセロリ栽培農家のところに聞きに行きました。しかし、1年目は栽培に失敗。2年目にはなんとか栽培できるようになりましたが、セロリの臭いが強いため、この地域で買って食べようという人はいませんでした。東京の市場に出せば売れるということが分かり、3年目には東京の中央市場への出荷ができ、セロリ栽培の手応えを感じられるようになったといいます。
要之助は米作りの指導員として、県下各地をまわっていたので、田畑の仕事は、もっぱら弟の岩二郎1人でやっていました。岩二郎は、一反五畝の畑のうち五畝でセロリを栽培しました。収穫したセロリを夜なべで4~5本ずつまとめて、箱詰めにして東京の神田市場へ出荷しました。消毒は収穫するまでに10回ほどやらなければなりませんでした。それでもベト病などの病気が入ってしまったときは、捨てなければなりません。それでも、岩二郎のセロリ栽培がある程度順調になると、セロリを栽培する農家が一気に増えたのです。
水田を利用して高くたてた畝に苗を二列に植え、間に肥料をまく栽培方法でした。根に水がいきわたるように乾燥具合を見ながら畝間に水をはりました。肥料を根に速く吸収させるためにも、畝を高くし水を灌水させる方法が適していたのです。
肥料は硫安を使いましたが、糞尿を3~6か月間野だめで熟成させた下肥も使っていました。ところが、戦後、進駐軍から「洋菜に蛔虫がついていてはいけない」という指導が入りました。西江部のセロリは下肥を使っているという評判がたって売れなくなってしまったのです。下肥を使わなくなっても売り上げは伸びませんでした。途方にくれていたとき、千葉・静岡・東京などのセロリ栽培の先進地では、「清浄野菜」という名前で売り上げを伸ばしていることがわかったのです。岩二郎は、「清浄野菜」というラベルを作って貼りました。この対策が功を奏し、東京など中央市場で信用されて高値で売れるようになったといいます。
セロリの栽培はとても手間がかかりました。肥料を多く使うので、雑草も多く、その草取りが大変で、側枝取り(子掻き)も大きな手間でした。商品価値を高めるために茎を柔らかく白くしなければなりません(柔白)。そのために、収穫前に飼料が入っていた紙の袋を切って一株ずつ巻いてわらでしばったりしたのです。収穫も大変手間のかかる作業でした。根っこをつけたまま収穫し、水を吸い込ませた苔(志賀高原の湿地帯にある苔を乾燥しておいたもの)を根っこの回りに巻き、その上に油紙を巻いて箱詰めにしました。
初めの頃は、リヤカーに積んで中野駅に持って行き、貨物便で東京へ送っていました。昭和30年代(1955~64)になって、西江部北組の公会堂前に下屋を出して集荷所を作り、大型トラックで送るようになりました。
市場とのやりとりは電話がなかったので、郵便局を通しての電報でした。郵便局員が毎日自転車で電報を配達する姿が見られたほどでした。夕方集荷場にセロリを持ち寄った時に電報も持ち寄り、いくらで売れたかの情報交換をしました。高値は一箱(15キログラム)が千円にもなり、畑の畝が「一速千円」と言われるほどでした。しかし、「クサレアリニヤスシ ニトメロ」というような電報が入ると、夕方荷を出してから、夜行列車に乗って東京の市場へ確かめに行ったこともあったといいます。
出荷は、共選でなく「〇〇農園」というように名前をつけた個選(各自の出荷)でした。組合としての業務は、ラベル・木箱・規格などの統一、トラック便の運賃の交渉などでした。
西江部のセロリ栽培の最盛期は34~5年ころまで。技術の進歩と品種改良などで、全国各地で栽培できるようになり、西江部の栽培農家は減少し現在に至っています。
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氷見 岩二郎さん
江部農事真興会 前列中央の着物姿の人が長島要之助(西江部区史より転載)
旧平野村洋菜組合集荷所 (青木康重氏所蔵)
