ホーム > ふるさとの農業を拓いた先人たち >  須坂のぶどうの先駆者 勝山仲兵衛

広報ほくしん

第35話:須坂のぶどうの先駆者 勝山仲兵衛

昭和61年に建てられた、勝山仲兵衛頌徳碑


丸太作りのぶどう棚の広がる高畑殖産農園


大正13年(1924)ごろの高畑殖産株式会社

須坂市街地から小布施町に向かって国道403号線を進むと、「高畑」信号の少し向こう左側に、道に面して大きな黒い石碑があります。「須坂ぶどう発祥地」「勝山仲兵衛翁之碑」などと刻まれています。今回は、須坂・上高井地方でもっとも早くぶどう栽培に取り組んだ、勝山仲兵衛を紹介します。

 勝山仲兵衛は、弘化元年(1844)高井郡沼目村(須坂市)に生まれました。成人してからは、父とともに農業を営んでいました。

 当時、次第に外国との貿易がさかんになり、長野県下では養蚕・蚕種製造が行なわれていました。仲兵衛も蚕種製造を始め、豊洲村高畑(須坂市)にも桑畑を持ちました。高畑は、松川左岸日滝扇状地扇央部の旱魃地です。

 仲兵衛は毎日人力車に乗って、沼目の本宅と高畑の別宅の間を往復しながら養蚕と蚕種製造に励みました。でも、仲兵衛は、養蚕だけに頼る農業経営に不安を感じ、生糸・蚕種以外の商品作物の必要を痛感していたのでした。

 たまたま蚕種輸出の関係で横浜に行った仲兵衛は、アメリカ人からぶどう酒をすすめられました。最初は、赤い色から、人の血と勘違いしたとの話も伝えられています。これが、仲兵衛とぶどう酒(欧米系ぶどう)との出会いでした。当時、ぶどう酒は、滋養強壮の効果があるということで、爆発的な人気を呼び、価格も高く、病気見舞いなどでは貴重品でした。

 明治19年(1886)、仲兵衛は、高畑にぶどう園の開設を計画したのです。年間降水量950ミリメートルという気象条件に、松川扇状地扇央部の火山灰土壌という土壌条件が、ぶどう栽培に適していると考えたからです。

 同年、仲兵は、ぶどう栽培法調査のため、東京 駒場の農科大学(現東京大学農学部の前身)を尋ねました。大学でもまだ栽培法は明らかになっておらず、当時ぶどう栽培の第一人者であった小沢善兵衛を紹介されました。善兵衛は、アメリカに渡って欧米系ぶどうの栽培技術を学び、当時東京市下谷区(現東京都台東区谷中)の農園で、欧米系ぶどうなどの苗木を生産・販売していました。仲兵衛は、善兵衛について研究したのち、コンコード・ブライトン・ナイアガラ・ハーバードなど数十品種の苗を持ち帰りました。そして、高畑の別宅前の畑(現在のjaコープアグリスの敷地)四反歩に植え付けました。一反歩に13本という密植栽培でした。小沢善兵衛の指導を受けてきたとはいえ、何から何まで未知なことばかりでした。

 同年、ぶどう棚作りが始まりました。高井・山田(現高井郡高山村)の山から伐り出してきた栗の丸太で作りましたが、丸太を組み、縄で結わえる作業は、地元の人や泊り込みの新潟県の人たちがあたりました。

 ぶどう棚の下の草刈りがまた大仕事で、常時地元の人3、4人が従事していたほどです。

 病虫害対策にも苦慮しました。消毒が始まったのは大正8年(1919)ごろ、年3回ほど、手押し車に手押しポンプを載せて行ないました。薬剤はボルドー液のみで、黒痘病・晩腐病などの病気に悩まされました。また、ゾウムシなどの害虫は、園内をくまなく巡り、手で捕まえました。

 ぶどうの販売は、県道須坂-中野線(現国道403号線)沿いに直売所を開いて行ないました。

 品種ごとに根曲り竹製の手かごに盛り込み、陳列棚の上に並べて売りました。お客は自分で、かごから欲しいぶどうの房を取り、珍しさもあって飛ぶように売れました。

 仲兵衛は、しだいに栽培面積を増やしていきました。明治29年(1896)には五反歩余、同32年には新たに五反歩拡張して一町余のぶどう園に発展しました。

 いっぽう、仲兵衛に刺激されてぶどう栽培を始める者も出てきました。仲兵衛は、乞われるまま、ぶどう栽培技術の普及に奔走したので、近隣あわせてぶどう栽培面積は二十町ほどになり、生産量も増加しました。県道沿いでの直売のほか、地元須坂をはじめ、小布施・長野・飯山・豊野などでも販売して、味のよいことで「高畑ぶどう」は有名になりました。

 生食需要だけでは限界を感じた仲兵衛は、明治34年(1901)、ぶどう酒の醸造を始めました。しかし、販売は予想外に伸びず低調でした。明治37年(1904)仲兵衛は、失意の中、惜しまれながら亡くなりました。

 仲兵衛の遺志を継いだのは、長男恒治でした。恒治は、大正7年(1918)高畑殖産株式会社(長野県下初の農業法人)を設立し、本格的にぶどう酒の醸造を始めました。ぶどう栽培も二四町余に拡大しました。

 ハーバード・イサベラ・コンコードなどを赤ぶどう酒に、アースダイヤモンド・レデーワシントン・ナイアガラなどを白ぶどう酒にし、生食用としては甲州・善光寺・デラウエアなどを栽培しました。最盛期には、ぶどう酒三十石を生産し、その販売先は北海道から関西方面にまでおよんだのです。

 歴代県知事が視察に訪れたり、大正13年(1924)の長野県物産品評会において、ぶどう酒として入賞したりしたのは高畑殖産のみでした。

 明治末から昭和初期にかけては、須坂製糸の全盛期でした。週に一度の休日や勤務時間外に、製糸工女たちが散歩がてらに高畑殖産まで遊びに来ました。工女相手に、生食用や土産用としてぶどうなどの庭売りを行なったのです。これは、観光農園の先駆けでした。

 現在も高畑地区から小布施橋にかけての国道403号線沿いには、もぎ取り園と直売店とを兼ねた観光農園があります。

 昭和61年(1986)は、仲兵衛がぶどう栽培を始めてから100年目にあたりました。須坂市は、主力品種を巨峰に替え、全国的なぶどう産地となりました。須坂の地にぶどうを導入した仲兵衛の遺徳を称えるため、同年4月4日「須坂ぶどう百年記念祭」が行なわれました。そのとき建てられたのが、冒頭の頌徳碑です。

このページの先頭へ